【ゴッホとゴーギャン展】で感じた、キュレーター(学芸員)さんの存在

ゴッホとゴーギャン展

愛知県美術館で、終了間際(2017年3月20日[月・祝]まで)の【ゴッホとゴーギャン展】を見てきました。東京では2016年のうちに閉幕していますが、35万人以上(!!)の方が足を運んだ企画展です。

名古屋での開催も残すところあと1週間。なので、ゴッホとゴーギャンの解説は少な目で感想を書いてみます。

ゴッホとゴーギャン展

日本で初めての試み

さて、この【ゴッホとゴーギャン展】ですが、 2人の画家を取り上げた展示というのは、日本では初めての試みです。

これまで日本では、一人の画家をピックアップした企画展を開催してきました。それは時系列でみる絵画の変化など、一人の画家を縦軸な流れで見せるものです。でも今回、2人の画家をピックアップすることで、同じ時代に生きていた2人の関係性(横軸)が見えました。

また、交流があった画家や2人が影響を受けた画家の作品もあわせて見ることができました。その数、総じて60点以上。彼らが生きた19世紀末や、周囲との関係性、彼らの人生がより具体的に見えて、それは見応えのある企画展となっていました。

こうした目線を変えた見せ方は、美術展を企画したキュレーター(学芸員)さんの構成力と努力の賜物だと思います。

子供向けのコメント

ところで、作品の横にはキャプションがついています。作品名や、書かれた年代、そして解説が書かれた小さな札ですね。

正直に告白します。私、作品横のキャプションを読んでも頭に残りません…。でも、作品だけを見て全てを感じとり、理解する自信のない私は、キャプションに助けを乞うわけです。なのに、その場限り…。(すみません、キュレーターさん)

今回、そのキャプションとは別に、床から1m位の高さの位置に子供向けのコメントがついていました。漢字にはふりがながうってあり、話し言葉で親しみのあるコメントです。例えば、

真ん中にいる女の人が、木からリンゴを取っているね。左はしの女の人は赤ちゃんを抱いているよ。赤ちゃんがリンゴを食べて、すくすく育つといいね。

的な。(記憶なので、ニュアンスとして受け取ってください。)

これ、私的に食らいつきました。まさに最近、「フランスにおける子供向けの美術教育」に関する本を読んでいたからです。

その本では、それぞれの名画を見た子供たちが、素朴な質問や感想を言います。それに、先生(?)が優しい言葉で答える美術教育を紹介していました。そこには、

天使がマリア様にお告げをしているけれど、片足を外に出しているね。これは長居をするつもりがないのだね。

とか、

天使の服と、マリア様の服の色が赤色で同じだね。これは…

とか、

マリア様は、手に本を持っているね。でもマリア様は字が読めなかったんだよ。この本の意味は…

という感じに、絵の説明をしつつ、宗教的な話もしつつ、さりげなく色彩学も教えています。

「私も、こういうことが知りたいわ。」と思って読んでいました。あ、興味とレベルが子供域だね…とは言わないでください。

いえね、大人にとっても、子供にとっても、目線を変えることや働きかけ次第で、美術へのとっつき方はまだまだあるのではないかな、と感じたわけです。

というわけで、【ゴッホとゴーギャン展】子供向けキャプションに戻ります。これは、最近の企画展では当たり前なのでしょうか?それもと今回、キュレーターさんが試みたのでしょうか?ともかく、こういった試みはとても素敵だな、と心躍ったのでした。

美術館、行きますか?

会場にはどんな人が足を運んでいるだろう、と周りを見渡してみました。

家族、カップル、一人。親と一緒の子供たちの姿もチラホラ。若い人から年配の方まで、実に幅広い年齢層でした。

【ゴッホとゴーギャン展】という超有名画家2人の企画展だからか、時代の変化なのか。以前の美術館の印象より、ぐっと年齢の幅が広がっているように感じました。そして男女年齢問わず、一人で来ている人も結構、多いです。

美術館に誰かと行くことは、同じ作品や時間を共有できることが素敵です。かたや、一人で行く時間を持つことは、作品とジックリ対峙して内省できます。そういう意味で、美術館は何度でも、足を運べる場所だと思います。

まとめ

私たちが芸術を鑑賞できるのは、美術展の企画・構成をするキュレーターさんたちの多大な仕事の上に成り立っています。今回の【ゴッホとゴーギャン展】は、(とても良い意味で)キュレーターさんの存在を感じました。

芸術のエネルギー、新しい発見、気分転換…、美術館は日常とちょっとばかり線を引く空間です。作品を楽しむのは勿論のことですが、企画をするキュレーターさんの試みを感じつつ鑑賞するのも面白いと思います。

そして、美術館が幅広い年齢の人たち(特に子供たち)が気軽に足を運べる場になればいいのに、と思うのでした。